文章の内容は、書き手よりも読み手の内面によって変化するという話をしよう。
例えば「世界一」という表現を文章で使ったときに
「2012年世界大会に優勝した○○さん」という「事実」のことを「世界一の○○さん」と「表現」するのは書き手の自由だと思う。
少なくともそれが2012年の世界大会後、次の世界大会の間であれば嘘ではないだろう。
では、次の表現だとどうなるか?
「世界に敵なしの○○さん」
この定性的表現に対する反響としては、
「今回はまぐれだよ」
「いや、彼とまともに戦える人は現役選手では存在しないだろう」
「××さんだけは互角に戦える」
などなど、色々な意見が帰ってくるのが自然だと思う。
それは「文章を書いている人」が意見を言っているのに対しての反論であり、反論である以上、その内容というのは「読み手が思っていること」だろう。
少なくとも書き手がその言葉の意味を定義していることは無い。なぜならば「事実ではなく表現」だからだ。
つまり、文章を書くという意味とは、本質的に「自分はこう思っている」という意思表示、コミュニケーションの一つの手段であり、当然に読み手によってその受け取る内容は変わってくることを前提として書いている。
逆に言えば、文章を読むということの本質とは自分の内面との対話であるとも言える。
他人が書いた、意思表示に対し、同調するも反発するのも自由だろう。
しかし、最低限行うべきなのは「書き手は、なぜそのような表現を使ったのか想像すること」だと思う。
なぜならば、書き手が(少なくとも事実を書くのではなく表現をしている文章においては)求めているのはコミュニケーションであり、イデオロギーの対立ではないからである。
文章を読んだときに一番大事なのは、そこに何が書いてあったのではなく、その文章を読んで自分は何を感じたかだと思う。
そして、その感情が芽生えたならば、それは書き手にとって、一つの書いた目的の一つが達成されたという価値のある、意味のある一瞬だと思う。